統一原理Q&A

 世界平和統一家庭連合の教義である『統一原理』。宇宙の創造から世界の進む道、人生の目的までさまざまな内容を扱っています。その原理にまつわる疑問をQ&A形式でお答えします。人間は何のために生まれて来て、何のために歴史が流れて、今後の世界はどうなっていくのか。宗教や哲学を超えた新しい理念に対して考証しています。

Index

 1、人生の意味とは  2、幸せな家庭を実現するには  3、神性を知るには

 4、霊界と先祖の救いについて  5、人間と天使の堕落について

 6、神はなぜ人間の堕落を止めなかったのか  7、人間に宗教は必要か

 8、復帰摂理歴史の年数について  9、合同結婚式の目的は

 10、イエスの十字架による贖罪は絶対か  11、歴史が繰り返される根拠とは

 12、イエスはいつ再臨されるのか


1、統一原理では人生の意義についてどのように説いているのでしょうか。人間が存在する根本的な理由は何でしょうか。人間が生きていく意味を教えて下さい。

A、すべての存在物は偶然発生したわけでなく、神様の明確な意図やご計画の中で創造されました。宇宙の形成から生物の誕生後、単なる突然の進化の連続によって人間が生まれてきたわけではありません。この精密な宇宙の構造や生物間の連鎖による共生共存を見ると、人間も他の生物たちと秩序や調和を保ちながら平和に生存し続けています。これらは神様の創造の偉業と捉えず、偶然の進化と片付けるには辻褄が合いません。

 統一原理の一部は聖書の教えに基づいて考証しているので、神様をすべての創造主と位置付けています。人間を創造した神様の目的があるというのです。原因があって結果が生じるように、「神様が人間を創造した目的」を知ることによって「人間が存在する目的」がわかります。ですから旧約聖書の創世記に記されているように、神様は人間に対して生めよ、増えよ、地を従わせよと祝福しました。この三大祝福をわかりやすく置き換えると個性完成せよ、子女繁殖せよ、万物主管せよということになります。

 神様のような立派な人格を土台とした愛を完成してほしいと願って創られたのです。そして愛の溢れる素晴らしい家庭を築き、生物同士と共存し合って理想的な平和天国を造ってほしいと願われました。すなわち、神様と人間は親子の関係と言えるので、神様の息子・娘である人間が真の愛によって結ばれ、喜びと幸福の中で生きる姿を通して神様を喜ばせようと創られたのです。私たちが生きる目的は、個人のみが幸せになるのではなく、人と幸せを分かち合える理想家庭を築き、神様が喜ぶような平和世界、地上天国を造っていくことにあります。そしてその幸せの種を子孫にまで伝え遺すことに意味があります。

 


2、現代の社会環境を見ると、人間関係に疲れてしまい、引きこもりや就労意欲のない若者も増えています。結婚願望や出産願望がない人もいますし、不倫や離婚などが絶えない世の中なので、理想家庭を目指すことは高尚過ぎると感じてしまいます。統一原理では幸せな家庭実現へのプロセスをどう説明していますか。

A、家庭が愛の基本と考えており、これは従来のキリスト教と同じです。親から生まれた貴重な命は、幼少期から愛されることによって心が成長し、人間性が育まれていきます。現代社会では多様な価値観が拡散してしまい、人倫道徳として家庭の大切さが教えられていない現状です。学校教育でも「なぜ結婚しないといけないのか」を明確に教えてくれません。

 神様が男と女を創った理由は、人が互いに協力して愛し合う世界を願われたからです。人がひとりで生きていけばいいのであるなら、あえて人間を男性と女性の二性に分ける必要はなかったでしょう。違う性質の両性が存在するのは、男と女が結ばれて、互いのために愛し合うことで無上の幸せを発揮できるからに他ならないのです。自分の快楽だけで人生を終わらせるのでなく、「誰かのために生きること」「誰かを愛して生きること」が人生最大の喜びなのです。

 ですから統一原理では利他愛や無条件の愛を「自己犠牲の愛」として、ために生きる家族の素晴らしさを強調しています。夫が妻のために、妻が夫のために、親が子のために、子が親のために理解し合い、助け合い、信頼し合い、認め合い、愛し合う。そういった自分以上に相手のために尽くす愛が理想家庭の基本であることを学んでもらっています。そういう家庭が世界中に広まることこそ神様の本当の願いなのです。

 


3、統一原理を著した教典である『原理講論』第一章・創造原理の冒頭には、「作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができる」と書かれています。一般神学では聖書やイエス・キリストの言行を通じて神性を理解すると聞きましたが、自然界を観察することで神様の性質を知るというのはどういう意味なのでしょうか。

A、自然を通して神を知ることが神ではなく、聖書を通して知ることだけが神学という考え方は少し偏重があります。啓示のような神の言葉を通して神性を知ることもできるし、聖書に記されたイエス・キリストの言葉を読んでも神様の性質を知ることができます。しかし作者の性稟を通してその作風が作品に表れることからも、人間や自然万物を観ることでそこに潜む普遍的共通事実からそれらを創造された神様の性質を理解することも可能なのです。

 被造世界は神様のすべての性質が注がれて創造された作品群です。ですから神様から啓示で下されたみ言葉は最も重要な神性を知る要素ですが、そのような宗教的アプローチだけでは不完全であり、神がどのようなお方かを知る上で理性や自然界からアプローチする手法でも補完しながら、両側から神の本質にたどり着くものだと考えています。木々の緑には種があり、根があり、幹や枝があります。そこから咲く実や花弁にもオシベやメシベといった二性が存在します。動物にも雄と雌がいて、人間にも男性と女性がいます。ですから創造主である神様にも父なる性質と母なる性質がそれぞれあるんだということがわかるのです。

 


4、統一原理では霊界(死後の世界)の実在を教えていますが、霊界が永遠に存在するならば今生きている私たちの世界にはどんな意味があるのでしょうか。統一原理の死生観を教えて下さい。また先祖供養など、他界した先祖たちの救いに関してはどのように対処したらいいのでしょうか。

A、人間は地上で平均80年余り生活した後、肉身は死を迎え、永遠の世界である霊界へ旅立ちます。決して体が滅びれば骨だけ残り、人生が終わってしまうわけではありません。地上での生活は永遠である霊界へ行くための準備期間なのです。人間に心と体があるように、神様が創造された被造世界にも両者が反映した無形世界(霊界)と物質世界(地上界)の2つの世界が存在します。別次元の空間にあるわけでなく、両界は時空を超えて繋がっていると言われています。私たちの人生の目的は上述したように神様の三大祝福を実現することです。三大祝福を通じた愛の完成を目指すのは、地上で長生きするためではなく、死後、霊界へ行った後に神様と永遠なる愛の関係を結ぶために必要だからです。

 「死」はすべてが無に帰る終わりの時ではなく、肉身を脱ぎ捨て、新しい世界へと出発する旅立ちの時なのです。人間は肉身の他に霊人体を持っており、霊界へ行けば霊人体は永遠に生き続けます。天国や地獄という霊界の階層は閻魔大王が決めるのではなく、地上で愛を完成した分だけ霊人体の成長が促され、自身の愛の成長度合いに合わせてふさわしい階層に留まるのです。善行を積んだ生涯であれば天国や楽園で暮らすし、自己中心的な欲望に溺れた人生であれば地獄へ行くことになります。家庭連合では死を「聖和(ソンファ)」と呼び、霊界へ出発する瞬間として尊重視しています。

 霊界へ旅立った先祖たちは、地上で生活している子孫を注目しています。しかし災いや不幸が続いたり、日ごろの行いに反してよくないことが起こるなど、恨霊(はんれい)という先祖の業によって苦しむこともあるのです。生前に恨みを抱えたまま苦悩して他界した先祖の霊人は、何とかして子孫たちに苦しみを解放してほしいと願っています。私たちは先祖を敬うだけでなく、そういった先祖の解怨まで果たしていくことで、よき報いが自分の人生に跳ね返ってくるよう日々神様を喜ばせる生活を心がけなければいけないのです。教会から正しく指導を受けて、故人に対する聖和式、追慕礼拝、祈願礼式、先祖解怨式などに精誠を込めて参加してみて下さい。

 


5、『原理講論』第二章・堕落論では、人間始祖アダムとエバが天使長ルーシェルの誘惑に陥って不倫なる淫行を結んだことが人類の堕落の始まりだと記されています。人間の罪の始まりが淫行であるならば、生身の女性であるエバと霊的存在である天使が性的関係を結んだというのはどういうことでしょうか。

A、旧約聖書・創世記の第三章に人間始祖アダムとエバがエデンの園で堕落していった顛末が描かれています。キリスト教の中ではこれを性的行為と解釈する宗派もあれば、文字通り約束に反して禁断の果実を食べてしまったことだと教えている宗派もあります。統一原理ではこの話を「愛の秩序が破壊した」と捉えています。

 罪の始まりが淫行だと説いているのは、神の下でアダムとエバが夫婦の秩序を守らなければいけなかったのに、天使が横入りして巧みに誘惑した後、エバと天使が関わりを結んで楽園喪失したと創世記に書かれているからです。実際に堕落後の世界には淫乱がはびこりましたし、現代においても男女の愛の過ちや家族の秩序の崩壊が後を絶ちません。純潔であった堕落前のアダムとエバは裸で過ごしていても恥ずかしく思わなかったのに、堕落直後に裸でいることを恥ずかしく感じ、下部を葉で隠したと記されています。また新約聖書・ユダの手紙でも最初の天使の過ちを「淫行」「不自然な肉欲」と扱っているのです。

 実際に人間と天使における感性は実体的な存在間における感性と少しも異なるところはありません。ゆえに人間と天使の性的堕落は事実上可能だと言えます。本来はアダムとエバが互いのために清い愛を守らなければいけなかったのに、天使と間違った不倫の血縁関係を結んだことで夫婦としての「愛の秩序」が崩壊してしまったわけです。高等宗教が禁欲生活を強調するのも、人間の最大の弱点が性的欲望や妬みの思いだと理解しているからです。自己中心的な愛の欲望に負けたことで罪が生じてしまったと解釈するのが妥当でしょう。

 


6、旧約聖書・創世記に記されているように「善悪を知る木からは取って食べてはならない」と戒めを与えていたにもかかわらず、なぜ全知全能であるはずの神様が人間始祖アダムとエバの堕落行為を防がなかったのでしょうか。神様なら堕落を知らなかったはずはないし、止めることができたと思うのですがなぜでしょうか。

A、神様がいるならこんな不幸な世界になるわけがない、だから神様は存在しないと論考される人がいます。実際は神様の創造目的に対して人間たちが信仰を果たして正しい生活をしているかが重要であり、人間が責任を果たさず不幸な結果をもたらしていることに「神様はいない」と結論づけるのは無理があります。

 神様は人間が神の創造性に似ることによって、万物世界までも主管できるように創造されました。それには人間に一定の成長期間を設け、人間自身の責任分担を遂行することで完成するように創ったのです。完成した後は神様が直接人間を主管することができるのですが、人間の成長期間中は自身の自由意思によって責任を遂行しながら成長し、完成していくのです。その成長途中の行為に神様が干渉してしまえば、神が彼らが完成したのちに初めて直接主管するという自ら定めた創造原理を破ってしまうということになります。神様は完全無欠なる創造主ですので、あえて人間たちが自分の力で創造性や万物に対する主管性を育めるように見守っているのです。それはまさに人間に対する神様の「親心」と言えるでしょう。

 神様は自ら創造したもの以外には創造の価値を賦与しません。つまりサタンや地獄や堕落行為に干渉してしまえば、それらにも創造の価値が認められてしまいます。ですから神のみが創造主であるためにアダムとエバの行為に干渉せず、2人が努力と責任を遂行して成長する中で三大祝福を完成する姿を待ち望んでいたのです。

 


7、よく外国の人から「日本人はなぜ無宗教なのか」と不思議がられます。しかし宗教間の対立によって世界紛争が無くならないし、新興宗派やカルト教団と呼ばれる人たちが常識を逸脱した行動に走るなど宗教は常に「怪しい」とか「危ない」というイメージが付きまといます。信仰は個人の自由だと思いますが、人間にとって本当に宗教は必要なのでしょうか。

A、宗教は宗(むね=胸)の教えと書く通り、1人ひとりが心の中に抱く死生観や人生の目標だったりするので、『教団』や『宗派』という枠組みを超えて考えれば、人間が何かの信仰を持つのは決して不思議なことではありません。キリスト教やイスラム教や仏教が教えの違いから戦争を繰り返してきたことは事実ですが、自然崇拝や神様を信じたり、先祖を敬ったりするのは人間として当たり前のことであり、周りの人に感謝したり人助けをするのも各自の思想や価値観もしくは宗教の信仰が影響している場合が多いです。

 現在では枝分かれして何万という数の宗教がありますが、本来全ての宗教は普遍なる一つの神から発せられたものなのです。それが教派ごとに分かれ他の宗派と相容れなくなってしまったのが問題です。〇〇教は邪教だ、私たちの教えのみが唯一の真理だという考えこそ危険であり、もっと宗教同士が宗派を超えて歩み寄りながら人類の救済や世界平和へ向け助け合っていく必要があります。私たち家庭連合は対立するものや相反するものを受容して「共生」し「統一(同じ目的を共有して一つにまとまる)」することを理想としています。そのためにも他人に信仰を強制するのでなく、互いの価値観や教義を理解して生活文化を分かち合っていけば宗教の枠組みを超えた「信頼」や「協調」が生まれてきます。だから宗教が危険なわけでなく、皆が自然と神様を知って宗教への壁や偏見を取り除いていくことは可能なのです。統一原理の教えの根幹は「神様の下の一つの大家族世界を作ろう」というテーマ性です。人を愛し、人を幸せにし、社会に平和をもたらそうとするエネルギーの源はそういった宗教的価値観を信じて実行するほかには得難いと言えるでしょう。

 


、人間始祖アダムとエバが犯した原罪の贖いに関して、『原理講論』後編には聖書に登場する人物の救いの方法を「復帰摂理」という形で記しています。しかし復帰摂理では人類歴史を6000年と見なしていて、聖書に登場するアダムの年齢が930歳、ノアの年齢を950歳と書いているのは違和感を覚えます。聖書の時代区分は実際にどう解釈したらいいのでしょうか。

A、聖書の文言解釈だけで統一原理を考察すれば、既成キリスト教の教義と矛盾が生じて理解に苦しみます。あくまで聖書は神様の歴史を知るための参考文献であり、統一原理はすべて聖書の記述のみに基づいて書かれた教えではありません。聖書や預言書というのは神様がその時代に生きた信仰的人物の言行を後代の者が読み解けるように比喩や象徴で書いた部分が多いのです。人類歴史をたった6000年とまとめているのは聖書記述から各々の年齢を足した象徴的なものであり、実際の天文学・医学的観点からは数万年と考えるのが妥当です。

 アダムが930歳、ノアが950歳まで生きたと書かれているのも同様に象徴的な年数と解釈すべきであり、古代オリエント神話に出てくる人類始祖以降の時代表記と比べても1年や1日が現代の時間縮尺と違ったと思われます。今から何千年前の聖書表記の年数を現代の私たちが神学として合理的に解釈するには、アダムから10代経ったノアまでの時代は神様が啓示すべき意味を持った特別な期間を満たすために長寿として表記したのではないかと考えるべきです。旧約・新約聖書上の表現はすべて文言通り解釈するには無理があり、現代人にとってどのような比喩や象徴を訓示として教えたかったのかをよく悟らないといけません。

 


9、家庭連合では原罪の贖いと理想的夫婦や家庭円満の実現を謳って合同結婚式を奨励しているそうですが、『原理講論』や統一原理の入門教材の中に合同結婚式がなぜ必要なのかまでは書かれていません。夫婦のみが親族や友人に囲まれて挙げる結婚式と何が違うのでしょうか。また家庭連合に入会するには合同結婚式に参加しないといけないのでしょうか。

A、世界平和統一家庭連合が主催する結婚式のことを「国際合同結婚式」と呼んでいます。これは人類が遺伝されてきた原罪を贖罪するために神様から祝福の恩恵を賜って理想夫婦出発を誓う神聖な結婚式です。結婚式というのは昔から神前や仏前で行うように、神仏に婚姻を誓う宗教儀式として執り行われてきました。家庭連合では神様が人間を創造した目的は「夫婦が愛し合って理想家庭を築き、それを繫栄させて理想世界を作ること」だと教えています。人間は結婚して素晴らしい家庭を築いてこそ、神様の願いに適っていくと言えます。永遠のパートナーとしての配偶者と共に理想の夫婦を築いていくことを神前で誓う最も貴い儀式が家庭連合の推奨する「祝福結婚式」なのです。人間始祖アダムとエバの罪を解決(清算)して、教会の趣旨に賛同した未婚の善男善女がマッチングシステムによってカップリングされ、大きな会場で合同で祝福される形式をとっています。

 もちろんマッチングされた相手が気に入らない人だった場合はお断りすることもできます。未婚者同士のマッチングによる祝福のほかにも、すでに結婚している夫婦が改めて祝福を受ける「既成祝福式」、伴侶に他界された人が亡くなった相方と受ける「霊肉界祝福式」もあります。教会で統一原理や祝福結婚の意味を学習された上で、実際に祝福結婚によって結ばれたカップルの幸せな姿を見ていただくことも「祝福」について理解を深めるのに役立つと思います。当然、合同結婚式に参加しなくても入会することができますし、結婚式への参加は義務でも強制でもありません。あくまで祝福結婚の趣旨を理解し賛同した上で、自発的に申し込んでいただく形になっています。詳しくは教会担当者にお尋ねいただくか、祝福結婚を紹介したサイト【幸せな結婚をあなたへ】をご覧下さい。

 


10、統一原理ではイエス・キリストの十字架の犠牲について「十字架が世界を救った」のではなく、「イエスは世界を救えず、若くして十字架で処刑された」と解釈しているように見受けます。キリスト教徒が熱心に主張する「イエスの十字架は神の予定であり、それによる贖罪は絶対的なものである」という言説を否定しているのでしょうか。

A、キリスト教ではイエスを神様と同等の位置に崇めて神格化していますが、統一原理ではイエスはイスラエル当時の救世主であり、神様そのものでなく人間だと考えています。20世紀に入って多くの神学者たちが十字架は神の予定でなく、不幸な出来事だったと主張し始めるようになりました。実際にイエスの死後、イスラエルに神の国が造成されず、人類の略奪と闘争の歴史が続いてきました。新約聖書のマタイによる福音書を読めばわかるように、イスラエル選民とユダヤ教指導者は不信仰によって神様の願いに反し、イエスを十字架で処刑してしまったのです。統一原理は決して聖書の権威を否定しているわけではなく、その解釈においてはキリスト教徒の見解と共通している部分も多いです。しかしイエスの救世主としての本来の目的を考慮すれば、彼が経験した三大試練や山上の垂訓、ゲッセマネの祈りなどはすべて人類を贖罪へ導こうとした行動であり、その結果として十字架で死を遂げたことは神様の最終目的ではなかったと推察できます。

 サタン世界から人類の罪を償うために十字架へ追い込まれたことで、イエスは部分的に贖罪を果たすために死の覚悟を固めましたが、十字架上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書第23章34節)と祈りました。ですから十字架の死は完全な贖罪をもたらしたわけでなく、人類に対して霊的救いのみを遺したのです。このことからも、統一原理では完全な救いと贖罪をもたらすためにイエスの再臨が必要だと説いています。イエスの犠牲を通して現代までキリスト教が発展し、欧米国家が隆盛した恩恵が「霊的救い」の効果として現れてきたのです。

 


11、歴史は神様の働きによって人類の救いを果たすまで似たように繰り返されてきたと結論づけるならば、神様が願う人類歴史の最終目的は「三大祝福実現による地上天国の完成」だと思います。統一原理では古代史や中近代史のどの部分を見て、歴史が繰り返されてきたと断定しているのでしょうか。またそれは西洋史のみでなく、日本史にも当てはまる史実があったのでしょうか。

A、人間始祖の堕落以降、ローマやイスラエルに人類が繁栄し、その地方から救世主思想が台頭していきました。アブラハムはその子イサクや孫ヤコブを含め信仰の伝統を子孫に受け継ぎました。ヤコブとエサウの兄弟は対立しますが和解した後、エジプトに奴隷時代が続き、モーセによって出エジプトが果たされます。一時は北朝イスラエルと南朝ユダが対立しユダヤ民族がバビロンに捕虜に囚われますが、多くの預言者たちの預言によってイエスがメシヤとしてイスラエルに誕生します。イエスの処刑後、キリスト教は迫害されますが次第にローマ帝国に認められていくのです。さらにキリスト王国が分裂し東フランクと西フランクが対立するも、マルティン・ルターの宗教改革以降は文芸復興や産業革命により高度な文明が発達していきます。そして民主主義の躍進と同時に世界各地でイエスの再臨運動が起きました。

 歴史は繰り返すと言われるように、人類にメシヤを迎えるというイスラエル選民の歴史的使命が果たせなかったためにイスラエルの使命をキリスト教が受け継ぎ、もう一度選民の歴史を反復するという現象が起きたわけです。人類はメシヤを地上に迎えようとしては何度も史実や年数が同様の形で繰り返してきました。ですから神様が人類を救おうと復帰歴史を繰り返してこられたことは文明の盛衰と大いに関連があるのです。またキリスト教伝来から日本は江戸幕府を通じて信徒たちを弾圧してきましたが、近代では欧米キリスト教国家と友好関係を築き内村鑑三など再臨運動勃興の地にもなりました。それは日本もメシヤを受け入れる風土が整ってきたことを意味します。とを「同時性」と呼び、「二つの時代は同時性をなしている」という表現を用います。そして、その現象が神の摂理的な理由によるものである場合、そ


12、『原理講論』最終章・再臨論ではイエスの再臨について、その時期と国に言及しています。なぜイエスが現代に再臨すると言えるのでしょうか。イエス当時の再臨する時期や場所に関しての預言が残っているのでしょうか。救世主が現代に再臨したとして、私たちに与える影響はどんなものでしょうか。

A、旧約聖書・アモス書第三章には「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と書かれています。預言者に伝えた再臨に関する預言が明らかになってこそ、イエスの再臨がいつ、どこに、どのようにして訪れるかが確認できるのです。新約聖書・ヨハネの黙示録第七章に「もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た」という預言が遺されています。ユダヤ教社会であったイエス誕生当時は、イスラエルはローマの属国であり、堅固な信仰を通して血統を守った単一民族でした。

 イエスの処刑後、400年近くローマによるキリスト教の迫害が続きました。歴史は繰り返すという復帰摂理の法則によると、ヤコブからイエスを迎えるまでの2000年間を反復しているのがローマによる迫害から現代までの期間であり、この時期に再臨が訪れるのです。それは宗教改革以降にアメリカ合衆国の独立や民主主義の台頭が成されたように、近代文明の発達がメシヤ再降臨準備を助長しているからです。特に預言の「日の出る方から」という東方の地域でキリスト教の信仰基盤が強く、他国から侵略を受け続けた悲哀の民族はどこかと考えた時に、鄭鑑録や格菴遺録といった弥勒下生の朝鮮再臨を預言した書物が遺されている国が適していると考えるのが妥当です。特に韓半島は南北分断と東西冷戦によって神とサタンの一線になっています。世界平和の最前線として民族統一へメシヤが降臨し、彼がキリスト教・儒教・仏教・イスラム教など宗教を一つにまとめる真理をかざしてすべての人類文化を統一し融合する役割を担っていく必要があります。イエスが救世主としての使命を完遂できなかったので再臨のメシヤこそ、現代人に平和思想を植え付けて『神様の下の一つの家族のような世界』を実現する存在でなければなりません。それは崇高な愛の精神を持って平和運動を推進できる人物に他なりません。